Twitterに、とっておきの話229「目や耳が悪くなくても」の原稿をアップしました。
パラリンピック開催中のこの時期に今回のとっておきの話について記事を書く。
なんだか運命的なものを感じます。
なぜなら、今回の話には
障がい者の偉業に対する見方
について聞き手に問いかけていく話だからです。
きっとこの話を聞いた後は、パラリンピックの見方も変わるかもしれません。
まず、障がい者の気持ちに聞き手を寄り添わせるために
目を閉じてください
耳をふさいでください
という指示をあえて出し、目が見えない、耳が聞こえない状況を想像してもらいます。
その後、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、すごいことを成し遂げた人として
① ヘレンケラー
② 塙保己一
③ エジソン
の3名を例示しています。
作成した当時はこのような原稿を作りましたが、1名紹介できれば充分だと思います。
なぜなら、大事なのは障がいの重さでも偉業の中身でもないからです。
今回の話で最も伝えたい部分は、次の締めくくりの部分です。
ここに、本当に大事にしたいことが詰まっています。
【この人たちは、目や耳が悪かったからがんばれたのかな?
(少し間をおく)
きっと目や耳が悪くなくても同じようにがんばっていたのでしょう。
目や耳が悪くてもがんばっているからすごいのではありません。
目や耳が悪いなんて気にしないくらいがんばる気持ちを持っていたのがこの人たちのすごいところなのです。
みなさんも同じ。
どんな困難があっても、どんな状態だろうと、がんばる気持ちは自分次第です。
そういう見方で、今日紹介した人物の本を読んでみてみましょう。
他にも、歴史上にはいろんな人物がいます。
いろんな人物のいろんな人生に触れてみてくださいね。】
障がいがあるのにがんばっているからすごい
と、私たちは障がい者に対してそういう見方をしてしまいがちです。
しかし、それは違うのではないかと思います。
障がい者は、障がい者である前に、みなさんと同じ「人」なのです。
なぜいきなり、「障がい者」というフィルターにかけて評価してしまうのでしょう。
障がい者でがんばっている人たちは、障がいがあるからがんばっている訳ではありません。
「人」として、乗り越えたい困難があるから、到達したい目標や夢があるから
純粋にがんばっている
のです。
「障がいがあるのにすごいね」という言葉の違和感を上手く伝えたくて今回のとっておきの話を作ったのを思い出しました。
「障がいがあるのに」という言葉はいりません。
それは時として差別的な言葉です。
「障がい者」という枠組みの中で評価するのではなく、
その人自身の努力を称えられる人間になりたいです。
つまり、がんばるという気持ちはどんな人だろうと自分次第でもてるのです。
そういう意味で、障がい者の人たちのがんばりは私たちに勇気を与えているのです。
ここを履き違えてしまうといけません。
上手くニュアンスが伝わると良いのですが・・・
気になった方はぜひ、あなたなりの解釈で話を組み立て、実践してみてください。
ここまで読んでいただいた方々,ありがとうございました。
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